木坂美生展

2021年4月27日~5月9日

 

テキスト :  

東京都美術館 学芸担当課長

山村 仁志   

 

木坂美生 ─ 写真に見つめられて

 

 

 木坂美生の写真には、一種古典的な調和と荘厳さがあり、日常の事物、人物、光景、風景が、「悲劇的」とでもいうべき気品を帯びている。構図や陰影や色彩が完璧なのである。何故かと問われても簡単には答えられない。かつて見たHPのデジタル画像だけでなく、実際の写真作品や写真集、そして新作を見てもこの印象は変わらない。何でもない光景でありながら、完璧なので、つい、じっと写真に見入ってしまう。人物がいる場合もあるし、いない場合もある。看板の裏や、洗濯物や、糸巻の芯や二つのグラスが中心に在る場合もあるし、壁や影だけで、中心となるモチーフが何もない場合もある。写真をただ茫然と見ていると、何故だか、写真の方から逆に私が見られている感じがする。何かに見つめられて、スローモーションのように世界が止まっていく。事物が擬人的に撮られているのかというと、そういうわけでもない。壁だけ、影だけ、空間だけの場合もあるのだ。何らかの人為的な操作ではない。運命ともいうべき、どうしようもない存在の相貌が写真に露呈している。

 

 「今日ようやくにして、私には、彼がどういう名だったかが分かる。母が私に、こっそり教えてくれていた。「ぶきっちょさんからよろしくってよ」。私が何かを毀したり、つまずいて転んだりすると、母は私にそう言うのだった。そして、いまになって私は、母が何のことを言っていたのか理解できるのである。母が言っていたのは、私を見つめていたあのせむしの小人のことだったのだ。この小人に見つめられると、気をつけるということをしなくなる。自分自身にも、またその小人にも。彼に見つめられた者は、破片の山をまえにしてうろたえることになる。」(ワルター・ベンヤミン「1900年頃のベルリンの幼年時代」『ベンヤミン・コレクション3』久保哲司訳 ちくま学芸文庫 1997年 p.595)

 

 木坂美生が捉えた光景は、ベンヤミンのいう「せむしの小人」のようなものだ。私は、写真に見つめられて、それに魅惑されて、それに写された風景に包まれて、見つめている自分にも写真にも「気をつける」ということができなくなる。その後で、「破片の山をまえにして」ただひたすらうろたえて、おろおろしているだけなのである。私は何を見ていたのだろうか。どうしてわれを忘れて見入っていたのか?確かに、私は小さいころからぼおっとしていた。よく失敗をしてきた。茶碗や花瓶や窓ガラスはよく割ってきた。わざとではなく、いわゆる不注意からである。大人になってからも同様であった。高価で大きなガラスを割ったこともある。まわりに注意がいかず、ひとり放心していることがひんぱんにあったので、当然ではある。もちろん、そのときは愕然とするし、落ち着きをなくしてしまうし、いたたまれない後悔に責め立てられる。しかし、すでに遅い。とりかえしがつかない。すでに世界が、自分が、運命が変わってしまっているのだ。

 

 木坂美生の写真は、この「破片の山」のようでもある。運命に逆らったとしてもどうしようもないのだ。その光景は他ではありようもなく、そのようでしかありえない。木坂は「作為的ではないのに、あたかも配置したかのように、手を加える余地のない空間がそこにあるとき、シャッターを切ります」という。まるで時間が止まったかのような、一切が凍りついたような、孤独で、現実ばなれのした空間がそこにある。手をつけたくとも手をつけられないような完璧さと運命が、何故だがその風景には刻み込まれている。そこには何かの矛盾が、傷みが静かに刻印されており、容易には解けないほど複雑に絡み合った深い感情と尊厳が秘められている。そして、それは取り返しのつかない事実でありながら、同時にじわじわと哄笑と歓喜がそこから染み出てくるような光景であり、写真なのである。

 

 

山村仁志 

東京都美術館 学芸担当課長