久野志乃×樫見菜々子 

black bird

2019年6月4日~6月16日 

テキスト :  O Jun   

    

「あの人どこへ行ったろう」カムパネルラもぼんやりそう云っていました。

「どこへ行ったろう。一体どこでまたあうのだろう。僕はどうしても少しあの人に物言わなかったろう」

  

あたし達の住んでいる街には河が流れていてそれはもう河口にほど近く
広くゆっくりよどみ、臭い。
「いったい死体はどこ行っちゃったんだろう?」

  

最初の文は、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」だ。カムパネルラが車中で出会った鳥捕りの男にとった態度を後悔してジョバンニに言うセリフだ。もう一つの方は、岡崎京子の「リバーズエッジ」。セイタカアワダチソウの繁茂する河口付近の埋立地で、高校生達が隠した彼らの“宝物”を探すシーンの一言だ。二人の作家によるこの童話と漫画は時代も中身もまるで違えながら、或る共通する感情をまとっているように僕には思える。これらの語りとシーンを見たときに瞬間的に僕を支配したのは或る懐かしさであった。しかし、どちらも架空の場所であり実在しない人々の物語がなぜ懐かしいのか….?、そのような感情の起こる仕組みを僕は知らないけれど、一種の既視感にも似た奇妙な時間と感覚の喰い違いによる感情作用を、僕は久野志乃の描く絵を見るたびにも体験するのである。画面の中では、空も地も青く冴え渡る風景の中に男女や子どもと思しき小さな姿が一人、二人と散見できる。恐る恐る水際に足元を浸しながら歩いている人、手を上げて呼び合う人たち。何気ないしぐさで彼らもまたこの景色の中で風景となっている。この光景がなぜ懐かしいのか?一体行ったことも見たこともない光景をこの先僕が見ることになるというのか。漠とした予感は宙吊りになって青々と目の前で光っている。でも、絵の中の人たちもまたその予感に満ち満ちているだ。なぜ、そうとわかるのだ?カンバスの表層に描かれた何某かの色彩や形象に彼方からの光が届き、それを見た僕は束の間狂いを生じたというのか。だけどそのことは決して辛くも嫌なことでもなく、むしろその逆で、焦がれるほど“あり得ぬ過去”が懐かしいのだ。 果たしてこの光景を、僕は一体どこから見ているのだろう?いや、そもそも本当に僕が見ているのだろうか?もしかしたら、僕は、同時に僕ではない誰かを経験する存在として自分を生きているのかも知れない。久野志乃の絵は、いつも強い郷愁を見舞った後にそんな謎を仕掛けてくるのだ。

  

「そうなんだ、たしかに僕もそう思っていたし、それを探したし、とても気をつけて水際を歩いていたんだ。ぜんぶありありと僕は憶えているし、見えるんだ。」

   

いつだったか、展覧会の会場で白くふわふわした小さなファーの中に異様に光る赤い目を見つけてぎょっとしたことがある。樫見菜々子がつくる縫いぐるみにはいつも僕らの都合のよい事物への好印象を転覆させる梃子が効いている。また時にはそれが絵画であれば、そこには何かががどのようにか描かれているので、それを見るべく近寄ってつくづく見ようと思うのだが、あいにくその前に僕らの視線や欲求をはぐらかすように柔らかいカーテンのような薄布がやんわりと遮るようにゆらめいている。しかし余りにもその風情が自然なためについ見え難いことを受け入れてしまう。そして、“そうか…これもやっぱり、見ることなんだ” と。もう一つ、気づかされたことがあった。彼女のつくる立体やオブジェのサイズからモノの大きさ について。

彼女の作品は大きなものもあるがそのほとんどが小さい。樹木や家などのイメージは実際のサイズから縮尺されたものになる。これは絵画の場合も同じで、どんなに巨大な画面でも実寸で森や山は描き切れない。それゆえに僕たちは風景画を観るとき、森や山を途切れ途切れに思い出し、同時に絵そのものを途切れなく舐めるように見ている。ミニチュアやマケットを見ているとは思わないのは幻と現実が相殺し合うからだ。樫見菜々子にもそのようなスケールがあって彼女のつくる小さきものたちは夫々の身の丈を示しその場に存在する。レース、リボン、ガーゼ、糸、毛糸、木、光、音…など素材の手触りはそのままこの作家の指先を伝って見覚えのある形に象られる。どれも細やかな品々はそれらがインストールされることで空間や場 はたちまちのうちに何処かの、誰かの“部屋”となる。それらは多分、作家が自身の日常を作品のなかに反映させているように見えるが、作品をつくるという行為と経緯に於いて決してそのままに持ち込んではいない。また感覚のみに任せてもいない。ワタシが日々、見るもの、あるいはアナタの見たもの、味わったもの、聴こえたものの数々が一度は作家の前に集められ手に取られ、あらためて“見直され”ている。彼女のつくる作品は場所と時間にまつわる記憶が入念に測られ吟味されているのだ。日常の記憶から汲み上げられた様々な事物や現象はそれに見合うサイズ、素材、容姿、佇まいが用意され新たな場を得ることになる。僕たちがいつも見慣れたことや見過ごしていることを彼女が手に取り見直すと、どこか見憶えのある、でも直ぐには気づかないくらい姿を変えたソレと再会を果たすことになる。

   

この二人の展覧会のタイトルは「Night bird」と聞いている。誰もその姿を見たことがなく、何処にいるのかもわからない夜に啼く鳥のことだという。その鳥の啼き声を二人は聴いたことがあるそうだ。展覧会で彼女たちはその鳥の姿を明かしてくれるだろうか?その声を聴かせてくれるだろうか?
いや、自分で探しなさいと言われそうな気がする。

 

2019年5月3日
O JUN