平体文枝 / あしたのあたし
2019年3月14日(木)~3月31日(日)
絵画との対話
山村仁志(東京都美術館 学芸担当課長)
「絵画と対話する」というと、たとえ話に聞こえるかもしれない。
確かに絵画はしゃべらない。しかし、絵を見ていると心の中でこんな呟きが聞こえてくる。
「この水色はまるで空を見ているようだ。高い空。雲も浮かんでいて動いている。おや、この部分は肌触りが他と違う。近寄ってみよう。細かくてざらざらしている。粉雪が吹いているようだ。横に走る白い絵具の筆あとが気持ちいい。その傍らに細くて薄い紫が横にすっと走っている。水色と白、そして僅かな紫のバランスが綺麗だ。ちょっと離れてみてみよう。広い空間を感じる。何だか子どものときに見た青空を思い出す。あれは空気が透明な冬空だった。見ていると自分自身が次第に空に吸い込まれて、まるでその中に浮かんでいるようだった。今もそうだ。白い筆触に誘われて絵の中に入り込んでいて時間が止まっている……」絵画はしゃべらないが、絵を見ていると次々に様々な連想が働き、絵の方から「ここも見て、あそこにも気付いて。」などと促されている感じがする。何故、この水色の変化とニュアンスに注意が及ばなかったのか。なぜ、この左下の白い筆触と右上の薄い白の対照に心が動かなかったのか。見ているうちにどんどん感覚が鋭敏に細微になっていく。たしかにそれは、自分の心のモノローグなのだろう。しかし、実感としては絵画が生きていて私に静かに語りかけているような気がする。時間をかけて絵を見ていると、それまで見ようとしなかったもの、見えなかったものが見えてくる。自分の心が動いてくる。心が静かに満たされる。
平体文枝は、石川県能登町に生まれ、1989 年筑波大学芸術専門学群美術専攻を卒業、2002年から翌年にかけて、文化庁派遣芸術家在外研修員としてベルギーに滞在し、王立芸術アカデミー・ゲントに在籍し、帰国後は東京、ベルギー、そして金沢で多数の個展を開催している。また、上野の森美術館、損保ジャパン東郷青児美術館など、多くの美術館の企画展に招待されている。現代日本のなかでも、堅実で安定した実力を持つ抽象画家である。
彼女の絵画は、静かにやさしく語りかけてくる。それは風景のようにも見えるし、単なる平面、ドローイングに過ぎないようにも見える。シンプルといえばシンプルだが、平体文枝でしかありえない個性があり、いつまでも心に残る。平体の絵画は、色彩が美しくマチエール(質感)がとくに優れている。オイルパステルを使った下地でとくに変わった技法を使っているわけではないが、彼女の絵を見る者は微妙な色彩とマチエールそのものが持つ魅力、快感、喜びに陶然として時間を忘れてしまう。下地の色面が持つ魅力に加えて、そこに引かれる筆触の運動感と質感、そして色彩が下地の色層と交響して、シンプルだが豊かな空間とハーモニーに包まれる。具体的に何かが描かれているわけではないが、見る者はそこに記憶の奥底に沈んでいた昔の風景や情景を連想し、懐かしいような、不思議な幸福感や希望がよみがえる経験をする。それは、彼女の絵画を直接見なければ分らない。絵画との対話は、面と向かったやりとりであり、コミュニケーションなのだ。