ヒカリアレト2

2019年7月6日~7月28日 

テキスト :  野口玲一   

    


ヒカリアレト、可視と不可視のあいだに

 

  今回の旅にあたり三つのアイテムを携えて新幹線に乗った。立原道造『盛岡ノート』の一節、詩碑アダジオの詩句、それと立原が言及したベートーヴェン「ピアノ協奏曲第五番『皇帝』第二楽章アダージョ」だ。彼の描く北方の遠く離れた古風な街の、澄んだ光と空気を想い描きながら盛岡へ、旧石井県令邸へと向かう。

 受付を済ませると、上からカラカラいう音が降ってきた。乾いた心地好い音で、ああ松本秋則の作品だなと思ったが、これが展覧会にとって大きな役割を果たしていることに後から気付くことになる。受付傍らの天井には小野ハナのアニメーション《東京》が、仰ぎ観るようにひっそりと投影されていた。「と・う・き・ょ・う」の文字一つ一つが人伝いに転写され、形を留めぬまでに変容していく。元の文字からの隔たりが、あたかもこの場所と東京との距離を示しているようでもある。自分は2時間少々で盛岡に着いたが、1938(昭和13)年9月、立原は東京から山形、仙台、石巻を経て数日かけて盛岡に至った。物理的な距離だけでなく、心理的にもここがどれほど遠く隔たった場所だったのだろうかと考える。

 一階には二部屋あって、最初の部屋には今回出品した全員の作品が並ぶ。部屋の奥では松本秋則の飛行機が、彼方の東京とここ盛岡とを行き来する乗り物のようにゆったりと飛んでいた。隣のショップでは第一回展出品の浅見貴子、平体文枝、本田恵美の小品が並ぶ。一階だけで前回も含めた展覧会の全貌が知られるようになっている。

 二階へと向かう階段の壁には和田みつひとのスライド映像が壁いっぱいに上映される。東京と盛岡の、日常的な風景から切り取られた静止画が映しだされていく。遷移するタイミングがゆったりしていることもあるのだが、色や構図が次の画像と類似するように接続されていて、繋がった光景のように見えてくる。階段を登りきった踊り場の欄干越しに見える情景は、展望台から眺める景色のようだった。それを観ながら思いもよらぬ場所へと運ばれていく。

 最初の部屋は橋本トモコの絵画だ。壁の高い位置に、それぞれ葡萄が一房づつ描かれた絵画が対に掛かっている。キャンバスの大きさは窓に合わせて決められている。左の房はたわわに実り、右では少しだけ残して実がもがれている。床へこぼれ落ちたように円い実のパネルが置かれる。部屋の入口付近で大きく、奥に進むにつれ小さくなるので、窓際に向かって遠近が強調されて見える。垂下する房はどこか吊り下げられた身体を思わせ、そこから連想されるのは磔刑図だった(そういえばワインはキリストの血とされる)。建築空間に則したあり方も宗教画に近しい。窓から射す陽光は絵具の透明な輝きを際立たせ、作品と建築が響き合う精神的な空間が現出していた。

 隣の部屋はオレンジ色の光に満たされていた。和田みつひとの日頃用いる黄色はエキセントリックで形而上的な色彩だが、それに比べると暖かみや親密さを感じる。暖炉の上には、枝からぽとりと落ちた椿を描いた橋本トモコの絵画。他に何も置かれずがらんどうの部屋の一輪の椿を観て、多くの者は千利休と豊臣秀吉の朝顔のエピソードを思い出すだろう。秀吉が楽しみに訪れた庭に咲き乱れる朝顔を利休は全て刈り取り、床の間に一輪だけの朝顔で迎えたというそれだ。これによりこの部屋が茶室に見立てられたのを知ることになる。階段に投影された映像は、そしておそらく橋本トモコの部屋に至るまで、この茶室へと続く露地の景色として置かれているのだろう。

 ここから先の展示は動的になってくる。竹ひごの機体にモーターとプロペラ、多孔質の和紙の羽根を備えた軽やかな飛行機が複数、モビールのように吊り下げられ、羽ばたきながらふわふわと回っている。暖炉上の竹筒は時折り回転する木片で叩かれ、木琴のような音を響かせる。松本秋則の作品では回転が大きな要素となっている。もちろんそれが動力となりユーモラスな振舞いを生んだり音を響かせたりするのだが、その行程は円環する時間や季節、さらに循環する生命を暗示し、わたしたちの世界観と親しい認識を共有している。

 二階最後の部屋は金庫室だ。狭い部屋の中央に、学校で使うようなスチールパイプの机と椅子が向かい合わせに置かれ、そこに据えられたipadとヘッドフォンで小野ハナのアニメーションを鑑賞する。《あいたたぼっち》は、キャベツがしばらく疎遠になっていた友人えんどう豆と再会しその内面に滑り込んでしまうお話。いじめに遭い自殺未遂したえんどう豆は記憶喪失に陥っていた。友人に向き合おうとする気持ちと無力感とが切実に伝わってくる。《such a good place to die》は一転して、大地の生成から流転にいたるようなダイナミックな動きが展開されるアニメーションだ。最後に海中から陸を眺めるシーンで視界が突然に途切れて終わるのだが、そこに至るまでの生き生きとした流動性のゆえに、その場所は死であるより生命が始まる場所のようにも思えた。二つの作品の全く異なるアプローチの振れ幅は、この作家の才能の大きさを物語っているようである。

 階段を上って屋根裏に辿り着く。薄暗い隅々に松本秋則の作品/楽器が潜んでいる。タイマーが仕掛けられており、息を吹き返したかのように突然にそれぞれが音を奏で存在を主張し始める。入館した際に聴こえてきたのはこの音楽だった。

 部屋を巡りそれぞれの作品に浸りながらも、この音は常について来る。最後の部屋でその種明かしがされるのである。鑑賞とは個々の作品に向かい、その現象がどのような形や素材のありようから生み出されてくるのかを目の当たりにすることなのだが、ここで起きていたのは観ていない作品を感じながら、もうひとつの作品に接していくという稀有の体験だった。個別の視覚的体験を、音が包み込んでいるといったら良いだろうか。またこの音はその響きによって、作品の収められた建築の総体を常に意識させる。楽器としての旧石井県令邸の内部を歩き、器の大きさを身体のように感じながら作品を観てきたのだ。この響きが展示の一体感を醸し出し、作品を越えた見えない何かを感じさせながら私たちを進ませたのに違いあるまい。

 

 


野口玲一

三菱一号館美術館 上席学芸員